曲谷の石切り場跡

更新日:2017年11月30日

全国的にもまれな遺跡

曲谷にある石切り場跡の写真

曲谷にある石切り場跡

曲谷は石臼(粉挽臼)作りの里として知られ、臼博士として知られていた三輪茂雄の著書『臼』(法政大学出版)にも、大量生産地をもつ石臼のひとつとして「曲谷臼」が紹介されています。残念ながら現在は石臼作りがおこなわれていませんが、その名残りは、曲谷集落のあちこちに点在する石臼の失敗品から確認することができます。

集落の北で姉川に合流する起し又川の上流に、石臼の作業所跡が残されています。もっともよく知られた場所は、県道から2.5キロメートルほどさかのぼった五色の滝周辺です。石臼の失敗品を含めた石材でコの字状に囲った、「イシヤ」とよばれる作業場跡が川沿いに七か所あり、石を割るために彫られた矢穴を持つ石材が随所に露出し、この場所で石材を採掘しながら、作業場でおおまかな成形をおこなっていたことがよくわかります。

曲谷の水長修氏によると、明治期まではここでの作業が行われていて、出来上がった石臼素材を四ないし五個をかついで集落まで持ち帰ったということです。持ち帰るコストから、集落での失敗の可能性をなるべく低く抑えるため、現地で破損のおそれがある仕事を終えていたとのことで、合理的な工程管理が行われていたようです。

作業場は2メートル四方ほどの大きさで、人一人が作業するスペースが設けられていたに過ぎません。壁の高さが背丈ほどあるので、屋根は簡単な小屋がけが行われていたと想定されます。石臼の未製品を多く使うものと、四角い石材をもっぱら用いたものがあります。この五色の滝周辺だけでなく、サナギ谷やイワイ谷でも作業所が発見されていて、曲谷の北側の山中の谷々で、石臼の素材採取と加工が行われていたようです。なお、採掘の対象となった石材は花崗岩で、曲谷周辺の花崗岩は、水長氏の表現では「粘っこい」ため粉を引いても石材がくずれず石臼に適しているそうです。このため花崗岩を産出する東草野一帯でも、曲谷の石材のみが石臼用に用いられたと考えられます。逆に、曲谷の墓地の墓石は曲谷石製ではなく、これは「粘っこい」曲谷石では、稜が鋭く立たないので、墓石には向かないということですが、石仏などには用いられています。

水長氏からの聞き取りによると、明治期には曲谷のすべての家が石屋であり、農業の傍ら石臼を作っていたそうです。ここで作られた石臼は問屋まで運ばれ、そこから各地に出荷されました。曲谷臼は滋賀県下や岐阜県下に広く及んでいて、流通ルートの一端が知られています。山間部の集落は、耕地面積が少ないことから、現金収入につながる独自の産業を模索し、発展させました。曲谷の石臼作りは、そのもっとも典型的なものです。

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