峠の交流

更新日:2017年11月30日

美濃と近江を結ぶ東草野

流通往来マップ

姉川上流の東草野地域と美濃国【岐阜県】の村々はいくつかの峠道で結ばれていました。甲津原からは、諸家(もろか)・広瀬・坂本【揖斐川町 旧坂内村】を結ぶ新穂峠。同じく甲津原と日坂【揖斐川町 旧久瀬村】を結び、現在は奥伊吹スキー場を貫通する品又峠。さらに、甲津原と諸家を結ぶ鳥越峠の三本の峠道がありました。上板並や吉槻からは春日美束【揖斐川町 旧春日村】を結ぶ国見峠が、美濃へ抜ける主要な峠道でした。
峠道は、仔牛を近江や関西から美濃へ移入した道であり、美濃の繭を吉槻で中継し、長浜へ運ぶ道であり、姉川沿いで収穫されたコウゾを美濃で和紙にし、再び鳥居本などへ納めた紙の道でもありました。浄土真宗の「廻り仏」もこの峠を行き来しました。甲津原には室町時代の能面(市指定文化財)が伝わっており、芸能や文芸もこの道があることで江濃一体でした。山中には炭窯跡がいくつもみられ、江戸時代初期から炭を焼き続けてきた山で、製品は長浜や彦根に出されました。職人や行商の行き来はたえず、曲谷の出稼ぎ石工が美濃に入るのも品又越でした。

 

甲津原集落のはじまりとして、平家や南朝の落人伝説が語られます。その根拠のひとつに甲津原には墓がないことがあげられます。源氏に敗れてこの地に逃れた平氏が、自らの存在を石に刻むのを拒否したからだというのです。しかし、三本もの峠道が交差し、活発な交流があった甲津原では、落人も隠れ住みにくかったのではないでしょうか

重要な七曲峠

七曲峠の写真

東草野の峠道のなかでも七曲峠は最も重要な道で、ふもとの吉槻は交通の結節点としての役割を果たしてきました。縄文時代中期、約四〇〇〇年前の起し又遺跡【曲谷】の土器や石器は、下草野の醍醐遺跡(長浜市醍醐町)と共通した様相がみてとれ、七曲峠を介した交流が先史時代にも活発におこなわれていたことがわかります。また古代以降、近代にいたるまで、東草野は姉川下流部の坂田郡ではなく、七曲峠を介して結びつく東浅井郡として編成されていました。炭は七曲峠をおりた鍛冶屋に問屋があり、農産物などは長浜方面へ運ばれました。鍛冶屋側からの物資の流入も盛んで、水産物については行商人による販売がなされていました。このため吉槻には商店や公共施設がたくさんありました。今でも東草野中学校、行政サービスセンター、診療所、郵便局などがあります。

 

七曲峠には、鍛冶屋の草野常吉さんが建立した「峠の地蔵」(常吉地蔵)があります。新穂峠や国見峠、吉槻と上板並を結ぶ小さな峠にも石仏が置かれています。峠は、ムラからの出口であり、違う世界への入り口です。旅や仕事の安全を祈願し、石仏に花や石が添えられました。

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