千代生誕の地「若宮氏館跡」

更新日:2019年06月17日

戦国時代の動乱期に夫・「山内一豊」を内助の功で支えた妻「千代」生誕の地「若宮氏館跡」(米原市飯)

若宮氏と外記仲間

一豊の妻「千代」は、近江浅井家の家臣「若宮喜助友興」の娘として生まれました。
大正3年に刊行された『坂田郡志』によると、若宮左馬助の娘「お松」が一豊に嫁いで「千代」と改名されたとされていますが、平成4年に近江町飯の牛尾田家において、土佐よりの書状(「牛尾田文書」)が発見され、「若宮お松」の嫁ぎ先が「五藤内蔵助」であると判り、「お松」と「千代」が別人であると判明しました。
しかしながら、千代の出自が近江の若宮家であることは依然かわるものではありません。
また現在の飯村には、「若宮外記仲間」といって19軒(昔は22軒)の仲間組織があり、牛尾田・伊部・吉田・宮崎・日比・吉用の各家が、若宮家遺領の田6反1畝・畑2反4畝・宅地3反7畝・山林1反を共同管理し、その年貢によって若宮家代々の法要が営まれています。

若宮氏館跡

若宮氏館跡

若宮氏顕彰碑

若宮氏顕彰碑

石碑の写真

元宮跡「どじょ野」

当地は、若宮氏館跡の西北部に臨接し、若宮氏の歓進した八幡神社の元宮があった所とされています。応永7年(1400年)頃の創建で、祭神は応神天皇です。
長く武をもって知られた若宮氏は、出陣の度に武運の長久をこの宮に祈願し、日常も崇敬の念を怠りませんでした。
永禄年間(1558年から1570年)、社地が狭くなったため、若宮氏はこの地より約百メートル西方に社領を寄進し、そこに社殿を造営して移転しました。以来約四百年間、現在の八幡神社が存続してきました。そして、この元宮跡を「どじょ野」と呼び、聖地として不浄の物を近づけぬよう村民は心がけてきました。
なお、当地の言い伝えによると、この地内に不遠慮に入るとにわかに腹痛が起こるとか、また、地中に黄金の鶏が埋まっていて、元旦には向かって声高らかに時をつくった、などと言われています。

元宮跡地の写真

八幡神社

当社は後小松天皇の御代、応永7年(1400年)頃に若宮氏より創建されました。
主祭神は誉田別尊(応神天皇)で、正親町天皇の御代、永禄年間(1558年から1570年)に若宮左馬助が現在地に社殿を造営し、社領として田一反五畝歩を寄進しました。若宮氏は、当社に武運の長久を祈願し、同家の守護神として崇敬していました。
若宮氏亡き後は、西飯村四十戸の鎮守社として現在に至っています。
なお、八幡神社の北東に「宮地(どじょ野)」と呼ばれる土地があり、そこは創建当時の社地と考えられ、今も大切に管理されています。

八幡神社の写真
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