功名が辻 ~山内一豊公と千代夫人~

更新日:2017年11月30日

1.戦国時代の動乱期に夫・「山内一豊」を内助の功で支えた妻「千代」。

いずれも米原市とゆかりの深い人物です。

山内一豊(やまうち かずとよ)

天文14年(1545年)、尾張国守護代・織田伊勢守家の家老、山内盛豊の三男として、黒田城(愛知県木曽川町)、あるいは岩倉城(愛知県岩倉市)に生まれたといわれている。
父・盛豊が織田信長に討たれ、一豊は流寓の身となるが、永禄10年から元亀にかけて信長、秀吉に仕える。
浅井・朝倉攻め、毛利攻め、賤ヶ岳の戦と転戦し、長浜、掛川と領国も替えながら出世していくが、秀吉没後、いち早く家康への忠誠を示し、関ヶ原には東軍として参戦、土佐二十二万石を得る。
慶長10年(1605年)没す。

山内一豊を描いた一枚絵の写真

千代(ちよ)

近江浅井氏家臣、若宮喜助友興(米原市飯(い))の娘として弘治2年(1556年)に生まれた。
幼くして両親を失い、近江坂田郡宇賀野(滋賀県米原市)で一豊の母に裁縫を習ったことが一豊との縁の始まりだといわれている。
夫の功名をその優れた状況判断で支え続け、長浜、京、伏見、大阪等に転住。一豊が土佐一国を授かり、土佐に移るが、夫の死後は、京に住み、家康の死の翌年、元和3年(1617年)没す。

千代を描いた一枚絵の写真

「一豊」と「千代」のエピソード

へそくりで馬を買う

一豊が織田家に仕えたばかりのころ、安土へ東国一という名馬を馬喰が売りに来た。しかし余りの高額に、誰一人手を出せなかった。
この馬で「馬揃え」に臨めば、さぞ信長公も感心されるだろうにと思った一豊は、その日帰って「貧乏ほど悔しいことはない」と、妻の千代に浮かぬ顔でこぼした。
これを見た千代が訳を尋ね、「馬はどれくらいするのですか」と問うと、「十両だ」と一豊。
千代は、ここが夫の生涯の一大事と考え、大切にしまっておいた十両を鏡箱から取り出し、そっと夫に手渡した。
その金で名馬を手に入れた一豊は、ほどなく行われた馬揃えに名馬にまたがって堂々参加。これが信長公の目にとまり、信長の家来衆でなければ買う人もなかろうと、わざわざ東国から出てきたのに、空しく帰さず、よく織田家の恥をすすいでくれたと誉め、家も貧しいのに武士として大変立派な心がけと非常に感心し、二百石を賜ったという。
これをきっかけに、一豊は出世していった。

愛馬と千代

一豊と千代の像「なでしこ」

笠の緒の密書

秀吉が亡くなった後の慶長5年(1600年)、徳川家康は会津の上杉景勝を攻めるため、6月に大阪を出発し、一豊もこれに加わった。
しかし、7月、下総の古川に到着した際、石田三成が家康を討つために挙兵したらしいことが伝わり、軍議が7月25日、下野の小山で開かれることになった。
このとき、家康軍とともにあった一豊ら諸将は、秀吉の重臣三成に従うのが自然で、妻子も大阪にいたため、身の振り方に大いに迷った。
ところがこの軍議の前夜、一豊のもとに早飛脚が着いた。飛脚は一豊の部下で田中孫作(米原市高溝)という。
孫作は文箱とともに、笠の緒により込んだ一通の密書を一豊に手渡した。密書は千代夫人からのもので、「大阪のことは心配せず、家康に忠節を尽くすように」としたためてあったという。
一豊は、文箱にはこれと同様の書状が入っていることを察知し、文箱を開封もせずにそのまま家康に届け、二心がないことを証した上で、家康側に就く決心を固めた。
一豊は、翌日の軍議の席上、一豊の居城である掛川城を明け渡し、甥を人質に差し出すことを家康に申し出、諸将もこれに従った。これによっていち早く西へとって返すことができた家康は、関ケ原で三成を討った。
この天下分け目の合戦に勝利した家康は、名実ともに天下人となったが、この家康勝利の糸口をつけたのは、まさに千代夫人の笠の緒の密書だったともいえるわけである。

田中孫作屋敷跡を示す石碑を上から撮った写真

一豊と千代の年譜

一豊と千代の年譜の詳細
年号 詳細
天文14年(1545) 一豊、尾張(愛知県)の国に生まれる
2年(1556) 千代、飯に生まれる
2年(1559) 岩倉城落城、父盛豊戦死。一豊15歳
3年(1560) 桶狭間の合戦。勢多城主山岡景隆に仕える
天正元年(1570)頃 千代、一豊に嫁ぐ
天正元年(1573) 一豊、豊臣秀吉に仕える
天正元年(1573) 秀吉に従って朝倉攻め。長浜唐国に4百石の知行地を受け、初めて領主に。一豊29歳
3年(1575) 秀吉に従って長篠の合戦に出陣
5年(1577) 秀吉に従って播磨上月城の攻撃に従軍、その功績により有年で7百石を受け、続いて2千石を領する
10年(1582) 秀吉に従い備中高松城を攻撃
10年(1582) 本能寺の変。山崎の合戦に従軍。一豊38歳
11年(1583) 秀吉に従い伊勢亀山包囲戦、賎ケ岳の合戦に従軍
12年(1584) 小牧、長久手の戦いに従軍。長浜5千石の城主に
13年(1585) 紀州征伐に参加。1万9千石を受け高浜城主に
13年(1585) 長浜2万石の城主になる。一豊41歳
13年(1585) 与祢姫、長浜大地震で圧死
14年(1586) 法秀院、死去
15年(1587) 千代、遺児を拾わせ、捨子(湘南和尚)と名づけ養育する
18年(1590) 小田原城攻めに参加。北条氏を滅ぼし秀吉全国統一
18年(1590) 掛川5万石の城主となる。一豊46歳
慶長5年(1600) 関ケ原の戦いに従軍。土佐高知22万石の城主となる
10年(1605) 一豊、死去。享年61歳
元和3年(1617) 千代、死去。享年61歳

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