大谷吉継

更新日:2017年11月30日

2本の白い旗が風になびく、大谷吉継の首塚の写真

下多良に残る首塚

 関ヶ原の合戦(1600年)で、西軍石田方の参謀として奮迅の働きをした大谷刑部吉継(1559年~1600年)の首塚と伝えられている石塔があります。小形の一石五輪塔で、半間四方の覆屋の祠(ほこら)の中に祀られています。大谷吉継は、現在の長浜市余呉町小谷(おおたに)在住の浅井氏家臣・大谷吉房の子といわれ、石田三成と同じころに羽柴秀吉に召抱えられ、関ヶ原合戦のときには越前国(福井県)敦賀5万石の領主でした。

 江戸時代に彦根藩士によって著された『淡海木間攫(おうみこまざらえ)』では、この塚を水口城主だった長束正家(なつかまさいえ)の墓と記しています。ところが『改訂近江国坂田郡志』第2巻(1941年)によれば、正家は関ケ原合戦後蒲生郡で自害し、その首は京へ送られており、正家の首塚ではないとしたうえで、関ケ原での小早川秀秋の裏切りによって、西軍の敗北を悟った吉継が、敵に首を渡さないよう、湯浅五助の介錯(かいしゃく)で自刃し、甥の僧祐玄が首を錦の袋に入れて、敦賀への逃亡の途上に、この地に埋め隠したといわれています。いまでも地元の人々に守られ供養されています。

敦賀と大谷吉継

 吉継は、天正17年(1589年)に越前国内で5万石を与えられ敦賀城主となり、敦賀城を三層の天守閣を持つ近代城郭に拡張・改修し、城下を整備しました。吉継の敦賀入邦は、日本海交易の要港で、北国の物資の集散地だった敦賀湊を秀吉直系の家臣に掌握させ、北国から畿内への輸送拠点、出兵時の物資調達拠点として機能させる狙いがあったようです。

 

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