京極高次

更新日:2017年11月30日

黒い着物を着て座っている京極高次の肖像画

京極家再興の夢

 没落した京極高吉(たかよし)は、鎌倉時代からの名門京極家存続をかけて行動します。足利義昭の擁立に尽力した高吉は、永禄(えいろく)11年(1568年)に上洛した織田信長(おだのぶなが)が成菩提院(じょうぼだいいん)(柏原)に宿泊したとき、北近江守護職(しゅごしき)としての家柄をなげうち、成り上がりの信長に恭順します。高吉の嫡男高次(たかつぐ)は、永禄6年(1563年)に小谷城京極丸で生まれたとされていますが、徳源院にも産湯の井戸があることはあまり知られていません。8歳で信長に人質に出された高次は、天正元年(1573年)、足利義昭(あしかがよしあき)の槙島城(まきしまじょう)(京都市)攻めの功で、蒲生郡奥島(がもうぐんおくしま)(近江八幡市)5千石を与えられます。この年、小谷城が落城し浅井家が滅びました。

 天正10年、本能寺で信長が自刃すると、高次は、北近江回復を夢見て、羽柴秀吉(はしばひでよし)の今浜城(いまはまじょう)(長浜市)を攻略します。しかし、明智光秀(あけちみつひで)が秀吉に敗れたため、清滝寺(せいりゅうじ)に身を隠し、秀吉の追討を逃れて、今須(関ケ原町)・高島郡を経て、北の庄城(福井市)の柴田勝家(しばたかついえ)を頼ります。

 賤ヶ岳(しずがたけ)の戦いで柴田方に属した高次は、ここでも敗れ、北の庄城は落城。勝家とお市は自刃し、三姉妹は羽柴秀吉に保護されます。高次は、若狭国(わかさのくに)(福井県)の守護大名である小浜(おばま)の武田元明(たけだもとあき)に嫁いだ妹(姉)の龍子を頼りますが、武田氏は秀吉によって滅ぼされ、妹は秀吉の側室(そくしつ)になってしまいます。龍子も京極家の再興を願って兄の赦免を秀吉に嘆願し、高次は高島郡2500石、のち大溝城(おおみぞじょう)1万石を与えられ、このときに浅井長政の次女初(はつ)と結婚します。高次は秀吉のもとで軍功をあげ、小田原攻めで八幡山城2万8千石。秀吉の朝鮮出兵では肥前名護屋城(ひぜんなごやじょう)(佐賀県)に詰め大津城6万石に封ぜられます。

戦国の論理

 このように、高次は近江国内で着実に加増されていきます。信長や秀吉にとっても、名門京極家の復興と高次が、近江支配にとって必要だったからです。

 慶長(けいちょう)5年(1600年)、京極家最後にして最大の危機が訪れます。高次(たかつぐ)の居城大津城は、大阪・伏見と石田三成の佐和山(さわやま)の間にあり、東山道の要衝です。大恩ある豊臣家から出陣を頼まれ、家康から味方になるよう誘われます。いったん西軍に加わって出陣しますが、再興した京極家の温存を図る高次は、弟高知(たかとも)を家康に従わせ、自身は2万7千の西軍を大津城に釘づけにしました。猛将立花宗茂らの西軍の猛攻を10日前後耐えたさしもの大津城も、9月15日炎上し開城。高次は高野山に蟄居します。しかし、この日、関ケ原では家康が大勝していました。灰燼(かいじん)に帰した大津の町と城を眺めた家康は、西軍の主力を足止めした高次の功が大なることを知り、若狭一国8万5千石を与えました。こうして、京極高次と初は、二人の思い出の地となる小浜に移ります。武田氏の後瀬山城(のちせやまじょう)から、海に面し、北川と南川にはさまれた海浜に小浜城を築城し、小浜の城下を整備拡張しました。

 高吉・高次・龍子の生きざまは、一族の血筋を絶やさず、領地を得て家臣を養うために戦いの優勢だと思われる方につくことが正義とされ、寝返りや親子、兄弟で戦うことが正当化された戦国時代の戦いの論理を体現しています。名門京極家は復興され、江戸時代の繁栄につながりました。

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