新庄直頼

更新日:2022年10月25日

常陸国麻生(ひたちのくにあそうはんしゅ)となる

 戦国大名浅井氏の家臣団は、小地域をまとめた「国人(こくじん)」とよばれる上層家臣と、村落単位の有力者「土豪(どごう)」である下層家臣に分かれていたといわれています。米原市内にも多くの家臣が拠点を置いていて、前者には堀氏・今井氏・大野木氏など、もともと京極氏家臣から浅井氏家臣になった者などがあります。土豪は上層家臣に仕える形で浅井氏に仕えました。市内では箕浦を拠点とした今井氏に属した、岩脇氏・井戸村氏・嶋氏など天野川流域の土豪が知られています。

 これらの家臣団は、戦国乱世のなかで多くが衰退・変転し、また江戸幕府成立とともに有力大名家の家臣になったり、帰農を余儀なくされました。唯一、米原市域に拠点を置いた国人で、江戸幕府に大名に取り立てられたのが新庄氏です。清滝・上平寺に館を構えた京極氏は、もともと北近江の守護・戦国大名であることから、幕藩大名になったのは別格として、今回は村落の領主から大名になった新庄氏とそのお城について紹介します。

 新庄氏は、三上山のムカデ退治で知られた俵藤太(たわらのとうた)こと藤原秀郷(ふじわらのひでさと)の後裔(こうえい)といわれ、二代将軍足利義詮(よしあきら)に仕えた俊名(としな)が、坂田郡新庄に居住して新庄氏を名乗ったのが始まりです。後年、居城を朝妻城(あさづまじょう)に移した新庄直昌(なおまさ)は浅井氏に仕え、戦国期の当主直頼(なおより)は、姉川の合戦で第四陣を構成し奮戦しています。浅井氏滅亡前後に信長、のち秀吉の馬廻り(警護役)として仕え、山崎城(大阪府)・大津城・宇陀城(うだじょう)(奈良県)・高槻城(大阪府)の城主を歴任します。関ヶ原合戦では、やむなく西軍に属し、東軍の伊賀上野城を占拠しますが、奪還され、身柄を会津の蒲生氏に預けられました。しかし四年後に赦免されて常陸国麻生藩(茨城県行方(なめかた)市)3万3百石の初代藩主となり、明治維新まで続きます。

朝妻城跡

 新庄氏歴代の居城は箕浦荘(みのうらのしょう)の新庄城で、総寧寺(そうねいじ)(寺倉)を菩提寺として歴代の墓地もあります。朝妻には中世以前の湖上交通の要港である朝妻湊(あさづまみなと)があり、浅井氏がこの朝妻湊を支配するために新庄氏に命じて朝妻城を築かせ、守護のために新庄氏を入れたと考えられます。

 朝妻城跡は、現在の中島神社を中心にした一画に築かれていたと考えられています。いまでは城跡の痕跡は認められませんが、中島神社のある場所は小字「向蔵(むかいぐら)」で、地元では「殿屋敷(とのやしき)」とよばれています。近年まで南北200メートル、東西200メートルの水濠(みずぼり)が巡っていました。内堀と思われる堀は、昭和になって埋め立てられ道路になっていますが、外堀は用水路として東と南面に残っています。明治5年~11年頃の『朝妻筑摩村地券取調縮図(ちけんとりしらべしゅくず)』には、小字「向蔵」を水濠がめぐり、とくに南面には幅の広い水濠(朝妻堀)が描かれています。これは、城に付属する船溜(ふなだま)りの痕跡ではないかと考えられています。また、城の北側には蛇行する水田が隣接して描かれています。これは、天野川の旧流路とみられることから、朝妻城は、朝妻湊を押さえるだけでなく、天野川の河口も押さえることによって、東山道により運ばれる東国の物資を掌握することも重要な任務として築かれたと考えられます。

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