息長足姫(神功皇后)

更新日:2017年11月30日

柵に囲まれた鳥居と森の緑が写る、神功皇后のゆかりの地の写真

息長氏(おきながし) 古代天皇家を支えた名族

 息長氏は、近江国坂田郡(米原・長浜両市域)の南部地域、現在の米原市近江地域付近の天野川(息長川)流域に本拠地を置いていた古代豪族です。息長の名前がはじめてあらわれるのは、現在最古の歴史書『古事記』と『日本書紀』。古事記では、開化(かいか)天皇段に「息長水依比売(おきながみずよりひめ)」の名が、日本書紀では仲哀(ちゅうあい)天皇条に「気長足姫命(おきながたらしひめのみこと・神功(じんぐう)皇后)」の名がみえます。その後も、息長氏は天皇家に后妃を入れ、天皇の親族として国政や修史事業に携わりました。

 息長氏の勢力拡大には、三つの段階があるといわれてまず。一つ目は、仲哀天皇の妃である神功皇后が息長氏の出身であることです。これは一地方豪族にすぎなかった息長氏が、やがて中央の政権に進出する大きな布石となりました。二つ目は、継体(けいたい)天皇への支援。近江高島の生まれで越前で育ったとされる継体が、大和以外の出身者として即位した背景には、継体の拠点である高島・越前と、支持基盤である尾張・美濃の両者を結ぶ要衝の地にあった息長氏が重要な役割を果たしているようで、これが息長氏繁栄の契機となりました。三つ目は、敏達(びだつ)天皇と広姫(ひろひめ)の婚姻です。息長氏出身の広姫が皇后となって、のちの舒明(じょめい)・天智・天武天皇へと系譜をつなげたことは、息長氏の勢力拡大の大きな要因となりました。さらに、壬申の乱では緒戦の激戦地が本拠地であったことから一定の功績があったとされ、勝利した天武天皇のもとで、天皇制の基盤を固めた皇親政治の一翼を担いながら、あわせて国史編さんに携わったことは、息長氏の名を正史の中につよくとどめておくことになったのでした。

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