牧野富太郎 高橋七蔵

更新日:2017年11月30日

伊吹山観光ことはじめ

 滋賀県の観光は琵琶湖を中心に発展しました。明治30年(1897年)頃から「近江八景めぐり」などの観光遊覧船の営業がはじまり、大正から昭和初めには、京阪神の観光客向けに豪華な大型観光船が就航しました。また、マキノスキー場には、昭和五年(1930年)に大津と海津を結ぶ太湖汽船の「スキー船」が就航し関西の客を誘致しました。これに対し伊吹山には、東海圏からの来山が多く、江戸時代から登られていたことなど滋賀県の観光の流れとは一線を画します。

 伊吹山では、明治5年(1872年)の修験宗(しゅげんしゅう)廃止令などの影響で山岳信仰が急速に廃れますが、江戸時代の文化・文政期頃から盛んになってきた庶民の物見遊山に着目し、京阪神と名古屋から最も身近な名山として、大正時代には案内料をとって登山客を誘います。山麓には旅館が経営され、大正3年(1914年)には中山再次郎(なかやまさいじろう)がスキーの講習をおこない、関西初のスキー場としてその後の発展をみます。大正2年(1913年)にはじめてのガイドブック『伊吹山名勝記』が刊行され、このなかには登山口の上野に伊吹旅館のほか、登山案内所、採集の案内、標本の販売、登山記念物、土産品販売、伊吹百草湯などを掲げる店が多数みられます。

伊吹山の植物利用

 大正14年(1925年)に設立された「対山館長生園た(たいざんかんちょうせいえん)」は、タイル張りの百草風呂を売り物とした旅館で、薬草や山菜の集荷、植物標本や絵葉書の生産販売、玉突きなどの娯楽施設などを経営していました。創業者の高橋七蔵は、明治21年(1888年)に上野で生まれ、幼少のころから伊吹山に親しみ、草刈りや薬草採集には子どもとは思えないほどよく働いたといいます。日清戦争のあとに登山客が急増し、案内人をかってでてしだいに専門知識を身につけました。明治39年(1906年)、坂田郡教育会が東京帝国大学の牧野富太郎を招いて植物講習会を開催したときに、牧野との生涯の交友が生まれ、牧野は対山館を定宿としました。

 伊吹山文化資料館(春照)には、対山館へ宛てられた葉書や封書が保存されています。これをみると、個人をはじめ漢方薬店、問屋、百貨店、製薬会社、医院、大学、国民学校などさまざまな取引先がみられ、北海道から熊本県まで28都道府県にわたります。東京・神奈川・愛知・岐阜・滋賀・京都・大阪・兵庫には安定した取引先あり、文面から遠路見本を携えて顧客を訪ねる七蔵の姿が浮かびあがります。

 扱われている商品の中心は、古くから「百草湯」「百草薬」などと呼ばれるゲンノショウコ、ドクダミ、トウキ、ヨモギを基本に配合された浴湯薬や健康茶、これらを粉末にした胃腸薬です。これらの主力商品以外に約200種の植物が取引されています。うち約130種類は薬用植物で、種子、苗、株、標本のかたちで薬草園や薬局と取引されています。また、昭和14年の牧野富太郎からの手紙にはトリカブトの採集にいきたい旨と、イブキトウキの生木を根付きで五株送ってほしいという依頼が記され、伊吹山の植物が七蔵を介して牧野の研究に役立てられていたことがわかります。高橋七蔵は、伊吹山でおこなわれてきた草刈りや薬草採集、登山案内で蓄えた知識を観光産業に発展させました。

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