後鳥羽上皇

更新日:2017年11月30日

相撲は神事

 奴振りとともに、近江地域で伝承されている特徴的な伝統行事が「奉納角力(ほうのうすもう)」「角力踊り」です。相撲は秋の行事で、日撫(ひなで)神社(顔戸)と山津照(やまつてる)神社(能登瀬)の秋祭に奉納されます。

 古代、相撲はその年の後半の農作物の豊凶を占う国家行事として、7月7日に宮中の「相撲節会(すまいのせちえ)」として開催されました。後世になると、野神祭(のがみまつり)など収穫に関する儀礼とセットになり、各地の神社では、天下泰平・子孫繁栄・五穀豊穣・大漁祈願などを願い、神事(しんじ)として相撲がおこなわれ、勝敗によって五穀豊穣を占ったり、最後の取り組みでは力士が四つに組んだ状態で行司が待ったをかけ、「この勝負来年に持ち越し」と述べて、場をおさめることもあります。一方で、長い年月に様々な技が洗練されて、次第に独特の様式を持つ格闘技になりました。日撫神社や山津照神社は、古代の神社一覧である『延喜式(えんぎしき)』神名帳(しんめいちょう)(927年)に掲載されている坂田郡五座であることから、相撲も地域の繁栄を願う神事として始まったと考えられ、現在でもその名残がのこっています。

 日撫神社では、毎年秋祭りに顔戸・高溝・舟崎の氏子による奉納角力と角力踊りが執り行われました。神事のあと土俵のお祓い、行司と呼び出しによる土俵祭がおこなわれます。奉納角力は、まず大関、関脇、小結の三役が神角力(かみずもう)を奉納し、いずれも東西両方が勝つようになっていたのは、前述の豊穣占いと同様です。地元の豆力士たちが子ども角力を行ない、中入りには、紫や赤、朱、草色の緞子(どんす)・綸子織り(りんずおり)の化粧まわしをつけた18人の力士が社殿に参拝後、土俵入りをします。近年までは弘化(こうか)年間(1844年~1847年)に井伊家から奉納されたまわしが着けられていました。土俵入りのあと、一ツ拍子と三ツ拍子の角力甚句(すもうじんく)に合わせて、掛け声とともに土俵を踏みしめる角力踊りがはじまります。

後鳥羽上皇伝説

 日撫神社には、東国と西国の力士が大きな石をはさんで力くらべをし、神の裁定で引き分けたという「手形力石」の物語が伝わります。また、「力競石(ちからくらべいし)」は、戦国時代に浅井家の武将で宇賀野出身とされる遠藤直経(えんどうなおつね)と、越前朝倉家随一の豪傑・真柄十郎左衛門(まがらじゅうろうざえもん)が、この石を持ち上げて力を競いあったと伝えられています。これらは、日撫神社の神徳や奉納角力をたたえる伝承です。

 能登瀬でも秋祭には神事角力が奉納されます。かつては、近郷はもちろん、遠く八日市、敦賀、岐阜あたりから力士が集まり、地方ではまれな盛況だったそうですが、近年は、能登瀬の児童生徒と、氏子青年による奉納相撲となっています。

 さて、実はどちらの奉納角力もその始まりについて、鎌倉時代の承久(じょうきゅう)2年(1220年)頃、北隣の名超寺(みょうちょうじ)(長浜市名越町(なごしちょう))へひそかに行幸(ぎょうこう)されていた後鳥羽上皇(ごとばじょうこう)の参拝に際して、村人が力くらべの相撲を披露したことによると伝えられています。湖北地方を遊幸された上皇は、宇賀野の蓮成寺(れんじょうじ)に参詣し、寺領として美濃国中山郷を寄せられました。また、日撫神社に参拝して角力を見学され、黄色の牛を奉納したと伝え、さらに山津照神社へも菊桐の紋章と、宝剣を納められたと伝えられています。次回、近江地域周辺にのこる後鳥羽上皇伝説を追ってみたいと思います。

近江地域の伝承地

 鎌倉時代の承久(じょうきゅう)2年(1220年)頃、日撫(ひなで)神社(顔戸)と山津照(やまつてる)神社(能登瀬)に参拝して角力(すもう)を見学されたと伝えられている後鳥羽上皇(ごとばじょうこう)は、後白河天皇の孫にあたり、平家滅亡の際に壇ノ浦(だんのうら)に身を投じた兄の安徳(あんとく)天皇に代わって即位し、第82代天皇になりました。建久(けんきゅう)10年(1199年)に土御門(つちみかど)天皇に皇位を譲りますが、続く順徳(じゅんとく)・仲恭(ちゅうきょう)天皇と三代23年間にわたり、上皇として院政をおこないました。鎌倉幕府の初期に京都の公家政権の実権を握った人物です。

 しかし、承久3年(1221年)、鎌倉幕府の執権(しっけん)・北条義時追討の院宣(いんぜん)(命令)を出し、畿内や近国の兵を招集して承久の乱を起しますが、20万と称される幕府の大軍に完敗します。隠岐島に流された上皇は、そこで崩御しました。承久の乱は、天皇・貴族による政治から、武家政権に替わる画期となりました。

 上皇は建久10年と承久2年の二度、ひそかに名超寺(みょうちょうじ)(長浜市名越(なごし)町)を訪ね、寺僧に討幕の祈祷を命じたという伝説があります。二度目の密行時に、日撫神社、山津照神社に参拝したようです。さらに、米原市内には上皇の皇子の墓が二カ所あります。蓮成寺(れんじょうじ)境内の宝篋印塔(ほうきょういんとう)は、雅成(まさなり)親王の墓と伝えられています。願乗寺(がんじょうじ)(中多良)の境内には「後鳥羽院ノ御子一ノ宮皇子(いちのみやのみこ)之墓 昭和16年宮内省調査」の碑がある五輪塔(ごりんとう)があります。

 このほかにも市内の後鳥羽伝説をあげると、福田寺(ふくでんじ)(長沢)本堂の南に上皇の供養塔とされる宝篋印塔があり、表門を入った衝立式の目隠し塀も、参拝されたゆかりで建てられたと伝えられています。湯坪(ゆつぼ)神社(高溝)もゆかりがあり、上皇が使った御手洗(みたらし)を湯坪といいます。高溝には上皇の爪を埋めたという経塚(きょうづか)もありました。人塚山(ひとづかやま)古墳(顔戸)の上の地蔵堂脇には、田植えを見られたときの腰掛石があり、人塚山を一説に鳥羽岡といいます。位山(いやま)神社(舟崎)の山の下には、幕府の探索から一時身を隠したという洞窟があります。山東地域にも伝承があり、堂谷の観音堂を下りたところにある経塚は、かつてこの地にあった極楽寺(ごくらくじ)の僧が小石に法華経(ほっけきょう)を一文字づつ書いて、上皇の眼病の快復を祈り埋めたと伝えられています。

黄牛塚古墳

 上皇が日撫神社に参拝したときに黄毛の牛一頭が奉納され、その牛を葬ったと伝えられていたのが顔戸にあった黄牛塚(おぎゅうづか)です。ところが、昭和50年に北陸自動車道建設に伴う発掘調査で、六世紀末に造られた古墳であることがわかりました。息長(おきなが)の王が葬られた「王丘(おうきゅう)」に、いつのころか黄牛伝説が根付いたのでしょう。

 さて、上皇の北近江来訪は、信憑性のある資料では確認できません。後鳥羽上皇伝説が近江地域に色濃く伝わる背景には、箕浦荘が上皇の肖像を安置する後鳥羽上皇御影堂(みえいどう)(大阪府島本町)の荘園だったことがあげられます。後鳥羽上皇の中三文字をとる長浜市鳥羽上(とばかみ)町も御影堂領でした。また、正治(しょうじ)2年(1200年)、柏原荘の地頭職をつとめる柏原弥三郎の非行に対し、上皇が自ら命令して追討させたことも、米原市と上皇を結びつけます。これらのことから、奉納角力をはじめ市内の社寺や古墳、石塔の由来となったと考えられます。

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