渡邊楠亭(わたなべ なんてい)

更新日:2017年11月30日

水色と黒の着物を着た、ちょんまげ姿の渡邊楠亭の上半身の肖像画

「湖東に楠亭あり」

 近江聖人(おうみしょうにん)といえば、高島市で生まれ、教育の拠点「藤樹書院(とうじゅしょいん)」を開いて、身分を問わず多くの門人を育てた儒学者(じゅがくしゃ)・中江藤樹が知られています。儒学とは、中国の孔子の教えを体系化した学問で、なかでも朱子学(しゅしがく)は、徳による統治を基本として再興され、江戸幕府の基本理念として採用されました。中江藤樹の学説は身分の上下をこえた平等思想に特徴がありました。

 米原小学校には、実に温和な顔つきで、何かを子どもたちに話しかけているような口元の肖像画が、いまもかけられています。威儀を正した端正な上半身。この人は、『近江の先覚』(1951年滋賀県教育会編集)で、「湖西に中江藤樹あり、湖東に渡邊楠亭ありとたたえられ、その篤行に於て近江聖人に比せられた」と記される渡邊楠亭(1800年~1854年)です。楠亭は、寛政12年渡邊又次の長男として筑摩に生まれました。幼名を司馬次郎(しばじろう)といい、家は代々農業のかたわらで酒を売って生活していました。小さいころから学問を好み、同じ筑摩の竹中文語(たけなかぶんご)や高溝の来照寺(らいしょうじ)住職の恵念(けいねん)から、読書や漢文の素読(そどく)(繰り返し読んで暗誦すること)の手ほどきを受けました。その後は、ほとんど独学自修で、昼は田畑で汗まみれで働き、夜はわずかな燈火をたよりに、明けがた近くまで学問にはげんで、ついに朱子学の奥儀を極めるに至りました。

教えることが楽しみ

 楠亭が生まれ育った筑摩は、古代に食物を調達した役所「御厨(みくりや)」があり、隣の朝妻は、古代から中世にかけての湖東の重要な港として栄えました。まさに、人や文化が常に行きかっていた場所です。さざ波が白砂の岸を洗い、湖水をへだてて竹生・多景の島々や比良・比叡、東には伊吹の山々を遠望する山紫湖碧の風光清らかな地です。先祖伝来の屋敷には、樹齢数百年の楠の巨木が茂り、その木陰に小さな建物を設けて、ここを塾にして門弟に教えを説いたことから、楠亭と号しました。いまはその建物も、楠の大木もなく、その代わりの木が育てられています。その遺品遺稿は、明治29年滋賀県全域を襲った大水害のときに湖水に埋没流失して、わずか数点の遺墨を残すのみだそうです。

 楠亭のすぐれた学問と徳をしたって集い学ぶ人々は、地元や近郷農家の子女ばかりではなく、彦根藩士や地方寺院の子弟などさまざまで、数百人にものぼりました。身分や貧富で相手を選ぶことなく、教えを求めるものには分け隔てなく親身になって教授しました。交流のあった名士や門弟は、近江国内はもとより、京都・名古屋をはじめ、大垣・笠松・一宮・垂井・敦賀にまで及んでいます。残された往復書簡からは、渡辺華山(わたなべかざん)や梁川星厳(やながわせいがん)、佐久間象山(さくましょうざん)など幕末の英傑との交流も伺えます。また同じころ、伊吹山の松尾寺には、のちに農政改革者として知られる大原幽学(おおはらゆうがく)が学んでおり、時々山を下りて楠亭を訪ねています。嘉永五年(1852年)、領内を巡視した井伊直弼(いいなおすけ)は、楠亭を賞して金子若干を贈っています。こうして名声が高まっても、生まれ育った筑摩を愛し、終生この地を離れず、農業と学問を見事に両立させた清く質素な生き方ゆえに、湖東聖人として、多くの人に慕われたのです。

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