山内一豊公の母「法秀院」

更新日:2019年06月17日

宇賀野と法秀院

戦乱が果てしなく続く尾張の岩倉城は、織田信長に攻められ永禄2年(1559年)に落城、岩倉城の家老であった一豊の父盛豊は城と運命を共にし、一豊と母や弟妹は夜陰の中、城から脱出、家臣や縁故親戚にもかくまわれていたが、信長の詮索が厳しく、逃避、流浪の上、知人の紹介で永禄3年(1560年)宇賀野の長野家に落ち着かれました。
一豊の母は、夫盛豊が戦死したのち出家し法秀院と称したが、資料が乏しく実名等は定かではありません。
法秀尼は長野家の屋敷の一隅でひたすら息子の武運を念じ、慎み深く質素な生活を送りながら、近在の子女に針の業(裁縫)や行儀作法を教えていました。説によると、この習子の中に、後に一豊の妻となった千代がいました。
利発な彼女を見初めた法秀尼は、息子の嫁に推されたと伝えられています。
悲運を背負い苦労の中にも地域の人達の温情に守られ、二十数年の歳月が経ち、念願であった息子一豊が長浜城主に栄達の朗報が届き、早々法秀尼へ迎えの使者が来ましたが、謙虚な人で老体が息子の活躍の邪魔になってはと、また長年住み慣れ恩義を受けた宇賀野を去り難く、再三の迎えにも応じず、その翌年天正14年(1586年)7月17日、病にてこの世を去りました。

戦乱の中の遍歴

一豊は、天文14年(1545年)7月、丹馬守盛豊の三男として尾張国で生まれました。このとき、信長12歳、秀吉10歳、家康3歳という関係になります。
一豊は、幼名を「辰之助」と言い、長じて「伊右衛門」と名乗りました。
多くの戦国武将がたどったように、尾張国岩倉・苅安賀・美濃国松倉・牧村と遍歴し、永禄3年(1560年)には、近江国勢多城主の山岡景隆の近習に仕えたといわれています。
一豊母子が、近江国宇賀野の長野家に身を寄せていたのは、山岡景隆に仕えていたとされ、一豊は少年期から青年期にかけて、宇賀野に居住したことになります。
また、一豊の母は、この地で死亡したとされ、宇賀野墓戸に墓所があり、長野家に「法秀院縁月妙因大姉」と記された軸が残されています。現在の長野家には、一豊に縁のある品として、鏡、くつわ、桝などと共に、貴重な文献資料(「長野家文書」)が残されています。
「長野家文書」には、土佐の山内家が、一豊の母「法秀院」の墓を発見するに至る経緯が記されおり、山内一豊の研究上、極めて貴重な資料とされています。(現在、長浜歴史博物館に保管されています。)
一豊は、やがて「内助の功」の誉れ高い「千代」をめとりますが、少年期を母と共に、この地で過ごし終えたことは、大きな転機となったと思えます。

現在の長野家

現在の長野家

山内一豊・千代夫人ゆかりの長野家所蔵品

(現在は、長浜城歴史博物館にて保管)

くつわ

くつわ

桝

法秀院殿墳墓の由緒

法秀院は宇賀野墓戸の地に眠る。
長野家には、法秀院殿縁月妙因の霊碑があり、当家では命日に誦経し、祥月命日である7月17日前には墓地を清掃し精霊迎えの行事を行ってきました。
集落の人々は、法秀院の墓とは知っていたが、墓地が長野家の私有地であり、管理も当家で行っていたので、諸人は故人を偲び手を合わせるのみでした。
一豊公が土佐高知に入国されて200年が過ぎた寛政2年(1790年)3月20日、山内家の主命を受けた馬詰権之助が法秀院の墳墓捜索のため長野家を訪ねてきましたが、突然の来訪であり、故ありて意を果たせず帰藩、同年10月28日諸手続きを行い、再び長野家を訪問、当家に宿泊し墳墓、遺品、古文書を確かめ、土佐に帰り藩主に報告されました。
寛政5年山内土佐守10代豊策は江戸よりの帰路、長野市右エ門を大垣の宿に、翌日は鳥居本宿に招いて、法秀院に関する旧事を聞かれています。
その後、山内侯江戸往復の際には謁見を許され、永代扶禄5口を賜ることになり、この下賜は明治維新まで続いておりました。
この際、法秀院殿霊碑の蔵所および墳墓の改修計画がされたが、墳墓の着工が延び延びになり、嘉永6年10月に至り漸く改修が始まり、翌年11月に竣工しました。
石碑は高知で調整、文を刻み近江に搬送、据え付ける手筈のところ、土佐高知で洪波が発生し、発送前の石碑はいずれかに埋没して、行方不明となりました。このため墳墓は台石のみで石碑なしの状態が長く続いておりました。
時代は変わり、明治25年(1892年)の春、長浜警察署長に赴任された旧土佐藩の武士、浜田源之助氏が法秀院の墓所に参られたが、荒廃した状況を嘆き、親せきの浜田厳彦氏に伝えたところ、同年の秋、山内家より家令が長野家を訪問、当主基太郎に墳墓の改修を依頼されました。
長野家では翌26年4月1日に改修工事を始め、翌27年4月22日に竣工、近在の名士がお参りし盛大に祭典が挙行され、その際、侯爵山内豊景公から祭文が届き、代参者が代読しております。
明治27年から大正・昭和・平成へと百余年風雪に耐えてきた墳墓は損傷が著しく、法秀院の人徳を偲び町内有志が相寄り、法秀院顕彰会を設立、墳墓の修繕を協議し、平成9年山内家18代当主のお力添えもあり、現在の墳墓が完成しました。
墓前には近隣の人達が、季節の花を絶えることなく供え、顕彰会によりお守りしています。

~山内一豊の母「法秀院」顕彰会~

法秀院(山内一豊の母)墳墓の歴史

法秀院(山内一豊の母)墳墓の歴史の詳細
年号 詳細
天正14年(1586)
7月17日
法秀尼(法秀院)、宇賀野長野家において死す。宇賀野村の墓地に葬る。
寛政2年(1790)
3月23日
土佐藩士馬詰権之助、主命を奉じて法秀院の墳墓を捜索するが、果たせず。
2年(1790)
10月8日
馬詰権之助、法秀院の墳墓を発見し、長野家において遺品・古文書などを閲覧する。
5年(1793)
6月5日・6日
土佐藩主山内豊策、長野市右衛門を召し、大垣宿・鳥居本宿にて法秀院の旧事を聞く。
文化8年(1811)
3月
長野市右衛門、京都土佐藩邸に召され、藩主参勤交代の際、旅館において謁見を許される旨を伝えられる。
文政8年(1825)
5月
長野市右衛門・子息市郎、金毘羅参りの帰路、土佐に赴き藩主に謁見しようとするが果たせず。
8年(1825)
6月
長野家、山内家より永代秩禄五口を賜る。
13年(1830) 法秀院位牌の蔵置所および墳墓の改修の設計を行う。
嘉永6年(1853)
10月
法秀院墳墓の改築を開始する。
7年(1854)
11月
法秀院墳墓の改築がなる。但し、石碑は土佐にて行方不明になり、台座のみのまま竣工する。
明治25年(1892)
長浜警察署長。浜田源之助(旧土佐藩士)、法秀院墳墓に参拝し、長野家において遺品・古文書を閲覧する。
次いで、墳墓の荒廃を土佐の親類・浜田厳彦に伝える。
25年(1892)
3月24日
浜田厳彦、法秀院墳墓に参拝する。次いで、その荒廃を山内家へ伝える。
26年(1893)
4月1日
山内侯爵家、長野基太郎に命じて、墳墓の改修を起工する。
26年(1893)
11月18日
墳墓の改修、竣工する
27年(1894)
4月22日
竣工を祝し、臨時祭典を行う。

清水清一郎著『法秀院殿墳墓御由緒』(明治27年)から作成。
〔第1回 近江町「山内一豊&千代」地域史セミナー・「長野家文書と法秀院」資料〕

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