山内一豊の母・妻

更新日:2017年11月30日

石で作られた、山内一豊母の墓の写真

功名が辻のさと・宇賀野

 戦国大名・山内一豊(やまうちかずとよ)の母「法秀院」(生前の名前は不詳)は、尾張(おわり)国羽黒城主(愛知県犬山市)梶原氏の娘(妹)、または二宮長門守の娘とされています。弘治(こうじ)3年(1557年)7月、尾張国黒田城が織田信長軍の夜討ちで落城した際、夫・盛豊を亡くすと次男の一豊らを連れて落ちのび、以後居場所を転々として、永禄(えいろく)末年(1569年)頃に、4人の子どもを連れて宇賀野(うかの)の長野家に身を寄せたと考えられています。法秀院は、深く仏教に帰依(きえ)し、つつましく穏やかな性格で、村民とくに子どもたちから慕われていたと伝えられています。近所の子どもに裁縫や行儀作法などを教えていましたが、そのなかに隣村の飯(い)から習いにくる千代(のちの一豊夫人・見性院(けんしょういん))の姿がありました。「内助の功」で知られ、「賢婦の鑑」とされた千代は、飯に住んでいた浅井家家臣・若宮喜助友興(わかみやきすけともおき)の娘とされます。

 天正元年(1573年)、一豊が近江国唐国(長浜市唐国(からくに)町)を治め、同13年長浜城主となったときには、同地に赴いたこともありましたが、生活基盤は常に親しい知人が多い宇賀野に置かれていたといわれています。晩年の天正13年11月29日夜に起きた大地震で孫の与弥姫(よねひめ)(6歳)を失うという悲しい出来事もあり、翌年7月17日、息子の大大名への出世姿を見ることなく、宇賀野で病没したといわれます。

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