円空・播隆

更新日:2017年11月30日

円空によって制作された、柔和な笑みが特徴的な十一面観音像

円空

生涯十二万体の造仏祈願

 円空さんをご存知ですか。市内春照の観音堂に安置されている観音像自体が、地元の人たちには「円空さん」と呼ばれて親しまれていますが、江戸時代前期、自らに課した修行と、人々の救済のために、生涯12万体の仏像を彫り上げることを発願して、諸国を巡った遊行僧が円空(1632年~1695年)です。

 円空は、美濃国、現在の岐阜県羽島市上中町に生まれたといわれています。この濃尾平野から西の山並みにひときわ神々しくそびえるのが伊吹山です。当時、伊吹山には多くの修行者(山伏)が入峰していて、里の村々で布教活動や呪術・薬草を用いた医療行為をおこなっていたことでしょう。円空も子どものころから伊吹山を眺め暮らし、これらの人々と交わるなかで、30才のころ発心して伊吹山で修行に入ったといわれています。寛文6年(1666年)北海道に渡った円空は、洞爺湖中の観音島で聖観音像を安置し、その背面に「江州伊吹山平等岩僧内 円空」と刻んでいます。平等岩とは伊吹山八合目に屹立する20メートル近くの巨岩で、岩の上に上るとまるで琵琶湖に投げ出されるように錯覚し、眼下北湖の輝きは西方浄土もかくやと思わせます。おそらく円空は、この岩での修行で悟りを開き、生涯歩みべき道を、一生不在、弱者救済、造仏行脚と定め、旅立ちました。

直筆の墨書を読み解く

 市内には二体の円空仏が残されています。元禄2年(1689年)に伊吹山太平寺で造られた十一面観音立像と光明院(加勢野)の不動明王立像で、ともに市の文化財に指定されています。

 太平寺は、昭和39年まで旧伊吹村の大字として山中に15軒の集落がありましたが、観音像とともに春照地区に移住されています。円空作十一面観音立像は、像高約180センチの円空仏としては晩年の大作で、すらっと伸ばした右手や腰を右にひねって出っ張ったおなかなど、仏像制作のきまりにとらわれない作風。竜神を模したといわれるウロコのような衣文。なによりも、見る角度でかわる微笑みと、頭上の10面の化仏が、四方八方の人々を救いたいという、円空の願いを顕しています。

 この仏像で注目されるのが、背面に書かれた円空直筆の墨書です。「四日木切 五日加持 六日作 七日開眼 円空」。重く固い桜の生木から、たった一日で観音像を彫り上げたことを記しているのです。30才で自らに課した12万体の造仏祈願。岐阜県高山市上宝村桂峯寺の仏像に「元禄3年 十万体作己」と書いており、長良川河畔で即身成仏した元禄8年までに達成したと考えられていますが、墨書はその造仏のスピードを物語る唯一のものです。

 さらに背面中段には、自作の漢詩が、下段には和歌が書かれています。漢詩は、
桜朶花枝艶更芳
観音香力透蘭房
東風吹送終笑成
好向筵前定幾場

播隆

前人未到の槍ヶ岳開山

 古代、日本の七高山(しちこうざん)のひとつに数えられ、たくさんの修験者(しゅげんじゃ)が修行を行った伊吹山。

 江戸時代の作仏聖(さぶつひじり)・円空は、この山を拠点に全国で修行したことで知られています。円空から遅れること約百年、念仏僧・播隆(ばんりゅう)も伊吹山中の草庵(そうあん)を拠点に笠ヶ岳や穂高岳で修行をし、文政11年(1828年)当時誰も登ったことがなかった槍ヶ岳山頂に仏像を安置して開山を果たします。播隆は、槍の穂先を阿弥陀如来の蓮華座と考え、誰もがここに登れるように鉄の鎖「善(ぜん)の綱(つな)」を取り付けました。登山愛好者からは日本初のアルピニストと呼ばれています。

 播隆は天明6年(1786年)に越中国(富山県)に生まれました。伊吹山には文政3年(1820年)に修行に入り、同6年から9年までは、伊吹山で行場を巡りながら山頂を目指す「伊吹山禅定(ぜんじょう)(「禅定」は高山で修行し悟りを開くこと)」や、岩屋などで山籠(さんろう)修行を行っています。

 なぜ播隆は山に登ったのでしょうか。仏の道を求めた彼は、安泰をむさぼる当時の寺院仏教になじめず、修行の場を山岳にもとめました。生家にのこされる手紙には厳しく諸宗を批判しており、播隆の真摯(しんし)な信仰心を読みとることができます。

江戸時代の伊吹山

 伊吹山頂には弥勒堂(みろくどう)が祀られ、伊吹禅定の修行者は、ここを目指して山中の手掛岩(てがけいわ)や行道岩(ぎょうどういわ)、阿弥陀ヶ崩レ(あみだかくずれ)などの岩場や、倉ノ内の滝不動で厳しい修行を行ったといわれています。

 播隆が生きた時代。江戸が経済・文化面で大変貌をとげた文化・文政期(1804年~1830年)、富士山・立山・白山は三大霊場として庶民の間に広く知られ、各地には信徒による講(こう)(信仰の会)が数多く組織されました。この時期に盛んとなったこうした霊山登拝は、物見遊山(ものみゆさん)や遊興という一面もありました。

 江戸時代の伊吹登山のようすについて、近江の代表的な地誌『近江與地史(おうみよちしりゃく)』には「弥勒禅定の人のみならず、薬草をとる人草木を商う者、四月の初めより八月の候まで登山の諸人たえず。」とあり、播隆の一代記にも、播隆を慕って山に登る信者が近江・美濃・尾張などから「市の如(ごと)く、山の如し」の有様であったと書かれています。いま以上に、多くの人たちがさまざまな目的で登っていたことが想像されます。

 米原市志賀谷には播隆書の「南無阿弥陀仏」名号軸(みょうごうじく)が三本と、名号碑が二基あり信徒が多かったようです。市内には他に数幅あることから、播隆の足跡を追うことができます。

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